Jiro Fujita (Art Director / Graphic Designer) Interview Part 1

Nujabes のアートワークを手掛けた藤田二郎とMIONのインタビュー
Chapter 1 —
音を画き始める、Dan K、Calmとの出会い
——最初に音楽に関わるグラフィックの仕事をされたのは?
藤田:当時、大阪で大変お世話になった先輩「kool jazz productions」の笹岡太郎さんにフライヤーを頼まれたのが始まりですね。たまたま自分がMacを持ってたっていう、それだけのきっかけだったと思います。
——そのときは、デザインの勉強はされてたんですか?
藤田:いや、ほとんど見よう見まねでした。その後、僕が上京してから笹岡太郎さんが「RAFT MUSIC」というレーベルを立ち上げて、その第一弾のCD「RAFT MUSIC 01」のジャケットデザインを担当させていただくことになったのですが、当時は印刷の知識がなく色味が浅くなっちゃって、自分が思ってたイメージと違ったものになってしまい、印刷知識や経験の必要性を痛感しました。
——画面で見るのと実際の印刷で出るのとでは違いますもんね。
藤田:はい、当時は2色刷りでやったんですけど、仕組みもよく分かってなかったです。ただ、そのCDが代官山の「ボンジュールレコード」に並んだときは、本当にうれしかったですね。
——Dan Kさんとの仕事はどんなきっかけだったんですか?
藤田:これは98年かな。自分がCGプロダクションで働いてた頃、バイトしてた酒井君って人が東洋化成に就職して、そこでレーベルを立ち上げるってことになったんです。
本当、僕の人生ありがたいことにこういう「縁」の連続な気がします。
そこで「”Dan K”というアーティストを出すんですけどジャケットデザインをやってほしい」とお願いされまして。
——つまりDan Kさんとはもともと知り合いじゃなかった?
藤田:まったく面識なかったです。でも、「やります!」ってことでやったのが初のレコードジャケットで、自宅のちっちゃいMacで作ってました(笑)。
——写真の演出が特徴的でしたよね。
藤田:はい、これは知り合いのカメラマンに頼んで、シャワー越しに女性を撮ってもらったんですよ。少し憂鬱な雰囲気、薬品っぽい、痛み止め薬のパッケージみたいな世界観を出したかった。ちょうどその頃、自分はCGもやっていたので、写真とCGをミックスしたら面白いかなって思って。
——このジャケットも色の浅さが?
藤田:これは1色刷りでしたが1色刷りでもデータにメリハリをつければもっと奥深い色になることを後に学ぶことになります。


——Calmさんとの出会いは、Dan Kさんの次でしたか?
藤田:そうです。その大阪のレーベルの3枚目として、Calmさんの作品を出すって話があって、「二郎くん、会いに行ってきて」と言われたんです。当時、渋谷の小さなカフェでCalmさんと会って、「絵を描いてほしい」って言われて。
——そこからあのジャケットが生まれたんですね。
藤田:はい。タイトルが『Shadow of the Earth』。Calmさんは「アフリカの風景をクーラーの効いた部屋からテレビで見ているような世界観」って表現していて、実際にデモを聴いているとその表現がまさにドンピシャで。繰り返し聴いていくとイメージがじわじわ沸いてきました。匂いや温度感、情景まで浮かんできて……それをそのまま形にしました。
——一発OKだったとか。
藤田:そうなんです、Calmさんはかなりこだわりを持たれてて、1発でOKが出ることってほとんどないんですけど、これは最初に出した絵がそのまま通りました。今でも自分にとってターニングポイントになった作品ですね。


——この仕事がきっかけで、他の依頼も増えたと。
藤田:はい。まさにここからレコードやCDのジャケットの仕事が広がっていきました。
——藤田さんの作風はどのように育まれていったのでしょうか?
藤田:正直、自分の中で「これが作風です」とはあまり意識していません。依頼主が求めているもの、つまり“問題解決”の感覚で取り組むことが多いです。自分に頼んでくる理由をまず考えて、その上で持っている引き出しの中から適した表現を選んでいく感じですね。
——作品づくりで一貫していることは?
藤田:あくまで“自己表現”というよりは“応答”の姿勢です。「この人は何を伝えたいんだろう」と考え、それを自分なりに翻訳していくプロセスが好きなんです。その結果として自然とにじみ出てしまう“自分らしさ”があるかもしれませんが、それを意識して描くことはほとんどありません。
——お父様も画家だったそうですね。
藤田:そうなんです。父は昔、ボルネオ島やスマトラ島など、南の島々を旅しては現地の人々と生活しながら絵を描いていた人で。帰国して個展を開いては、島に渡るという、まさに“旅する画家”でした。首狩り族の村に住もうとしたこともあって、週刊誌に「異色家族の移住」として紹介されたこともあるんです(笑)。
——映画のような話ですね……!
藤田:はい(笑)。
——そんなお父様の影響は、やはり色彩感覚などに表れているのでしょうか?
藤田:そうですね。父の影響で、自分の色彩感覚には中間色やグレイッシュなトーンが多くなったかもしれません。「黒は黒の絵の具を使うな」なんて教えもありました。黒は他の色を混ぜて作るものだって。
——絵のテクニックを教わったというより、環境として“絵がある日常”があった、と。
藤田:まさにそれです。家の近くに父のアトリエがあって、そこにはマングースやキングコブラの剥製、首狩り族の首を入れる籠など、強烈なモチーフが並んでいて。まるで“クレイジージャーニー”の世界でした。でも、そういうものが子どもの頃から身近にあったことが、知らず知らずのうちに今の表現の根っこになっている気がします。
次回はNujabesとの出会いと別れ